いわゆる「ライブエレクトロニクス」という演目で、昔は良くステージにかけられたものですが、最近はこうした電子音楽の催しも控えめになって、あまり目にすることもないような気がしていました。MIDIは生楽器を使わない音楽ではむしろあまりにも一般的ですが、今回の私の試みはさらに突っ込んで,タイミングを機械が独自に判断して音を自動的に変調させるもので、演奏者が機械の判断に従って演奏する内容を変える、といった内容です。そのために機械に判断させる内容を事細かに決めて、其のパラメータをどう設定するか、といったことが思案のしどころでした。ステージ上のマイクは楽器からの音だけではなく、スピーカから出た再生音をも再び拾ってしまうため、変調した音が再びループしてしまい、其のことで不都合が起きることが考えられるからです。其のほかにも諸々考えられることがあり、取り敢えず音を出してみてその都度考えることにしました。
今回のプログラミングの要諦は、ベートーヴェンの最後のピアノソナタとの組み合わせです。この曲が作られた頃はすでにロマン派の波がむしろ盛んで、古典的な作風は時代遅れとなっていました。ウェーバーの小協奏曲なやロッシーニのセミラーミデ、メンデルスゾーンやショパンはすでに若書きながら曲を作り始めていました。シューベルトの未完成交響曲も同じ年です。こうした流れはますます強くなり古典的なベートーヴェンの作品は、一時代の終焉を飾るものとなりつつあったのですが、それでも今こうして眺めてみれば、純粋に音で表わされる世界のもっとも深遠なものを我々に見せてくれたベート−ヴェンの後期の作品は、音楽史の流れの中で一つの時代の終わりを示すとともに、音楽の芸術としての可能性を端的に示してくれるもっとも望ましい形と気が付くはずです。
その後、時代は流れて20世紀ともなれば、後期ロマン派はその後の音楽界の混迷を生み出す最大の原因であり、あらゆる音楽の存在そのものにまで立ち返るような問題をさらけ出したのです。げんざい現代音楽といわれるもののほとんどが、聞く者に生きることの意味を問い掛けることはありません。音はひたすら濫費されるのみで聞くものの気持ちをいらだたせるものが多く、片やポピュラー音楽の世界では機械仕掛けのシーケンサーにのせられたオルゴールのような音楽が幅を利かせ、この状態をミューズの神が目にしたならば、音楽の可能性に絶望することしかできないでしょう。ともあれリサイタルの最後の曲の作曲者ラフマニノフは、後期ロマン派の音楽のあり方の1例として、私にとっては好ましい作曲家であり、その彼の死とともに「音楽の喜び」は著しくこの世から減退したと思えるのです。彼の作風も同時代の作曲家からはアナクロと揶揄され、同郷のストラビンスキーはこの最後のロマンチストを事あるごとにこき下ろしていたそうです。
これが今回のプログラミングのコンセプトですが、其の意図を感じてていただけたら幸いです。
今回取り上げるのはブラームスで、ドイツロマン派を代表する作曲家です。多方面にわたる作品を残していて、そのいずれもが完成度の高い作品として知られていますが、特にヴァイオリンとピアノの二重奏作品は、室内楽全体に作品の数からすると少なく、しかもそのすべてが後期の属します。あの巨大なヴァイオリン協奏曲の次の作品として生み出された第1番のソナタは、そういった観点からも満を持しての作品といえます。勿論これ以前にもヴァイオリンソナタは作られていますが、5曲ほどのそれらはすべては破棄されて残っていません。
かすかにその名残といえる作品がブラームスの20歳ごろに生まれた「FAEソナタ」です。これはディートリッヒ、ロバート・シューマンそしてブラームスが名ヴァイオリニストのヨアヒムにささげた作品で、その出自も変わっていますが、シューマンの最晩年の狂気を感じさせる楽章と、他の二人の若書きの対比も面白く、なかなか演奏されることの無い作品ですが、音楽史的には大いに価値がある作品ではないかと思います。