「私の文化論・音楽について」平成7年5月
毎日の生活の中で何気なく接している音楽は、人類の歴史と同じぐらいの永い発展を経てきている。そもそも音楽がどのようにして発生したかを考える時、音楽が我々にどのように拘わってくるかを考えなくてはならないこんにちでも「た〜けや〜、さおだ〜け〜。」の掛け声や「ふる〜しんぶん〜、ふる〜ざっし〜」の掛け声は微妙な節回しが伴うことで、人の耳に残りやすい。掛け声をあげる側にとっても、どことなく調子が出てくるように感じられる。衆を頼んで労働をする時や、雨乞い等の宗教的な儀式をする時に、掛け声をあげているうちに、そこに節回しが伴ってくることは、こんにちの我々でも想像することは困難ではない。即ち何らかの意志を同じうしようとするならば、抑揚が更に発展した形での旋律というものが、自然に発生して発展してきたことを理解することができる。日本の平家物語やアイヌのユーカラ、西洋でもニーベルンク伝説などは言葉に抑揚を付けて、恰も旋律のような節回しを付けて長い物語を語って聞かる。詳細は分からないがアーサー王伝説なども5世紀頃から15世紀に纏められるまでの1000年の間、文章としてだけでなく、口伝で以って多くの語りべによって伝えられるが、その際、旋律的な節回しによって、戦いの場面や愛の場面に彩りを添えたことは間違いない。西洋でもっとも長い間、愛の歌として語り継がれてきたトリスタンとイゾルデの物語は西洋人の恋愛に対する感覚に大きな影響を与えているが、それも1000年以上の長い間歌い継がれてきたことにもよる。これらが唯単に文学として言葉だけで語り継がれたとしたら、聴衆はそのあまりの長さに閉口したに違いない。またアイヌ民族は文字を持たないので、口伝でしか物語りを受け継いでこれなかったが、その節回しを伴った「ユーカラ」によってアイヌ民族の文化が今日まで伝わったことを考えると、歌謡的口承文学の存在価値は大きい。世界には文字を持たない文化は多いが、その殆どに歌謡的口承文学があり、実際、比較文化学の大きな拠り所となっている。日本の民謡は5音音階が基本である。世界的にみても5音音階の民族は多いが、それは言葉のシラブルと密接に関係している。西洋でも500年ほど前迄は旋法、モードと呼ばれる音階が今日の音階の前段階としてあったが、しかしそれは今日の西洋音階のように7音あった。最も早くから音階に対する理論を持っていたギリシャでは、音楽は朗誦と共に発展してきたので、言葉の在り方とは不可分であった。それから数千年たって、音楽の世界でも文芸復興の波が押し寄せてくると、転調と言う問題がやがて起きてくる。永い紆余曲折を経て、平均率という革命が200年の間試行錯誤を繰り返すが、これに因って西洋音楽とそれ以外の音楽の決定的な差が生まれる。音楽は何を表現出来るのだろうか。音楽には2つの種類がある、「絶対音楽」とそれ以外の音楽である。たとえば波の音や風のふく音はそれ自体何の意志も持っていないが、聴く方ではいろいろなイメージを被せて解釈しようとする。しかしピアノ売り場で子供が大勢で鍵盤をかき鳴らしていることを、音楽と言う人はいないように、ピアノ音楽と言うならばそこに統率された音の運びと伝えたい意思が無くてはならない。それが音と音楽の違いである。では音楽と言われる為には、どのようなことを伝えなくてはならないのだろうか。たとえばベートーヴェンの「運命」といわれる曲は純粋に音の羅列であるが、それを聞いてそこに個人的な思い入れを馳せることは出来る。しかしその行為はあくまで個人的なもので、その際に抱いたイメージは何ら普遍性を持たない。つまり「運命」を聴いている人が抱くイメージは、隣の人どうしでも全く相反することも有り得る。序でに言えば演奏する側でも楽譜の読み方、つまり解釈によって全く違うイメージを同じ曲に持つことは、以上のような理由から理解でき得る。ソナタや交響曲といわれるものは、そこに音の羅列以上の特定の感情表出はない。音楽に接した時に頭に描く感想は、その人の理解力、想像力などに左右される。日本の古典、と言っても源氏物語ほど難解ではないが「おくのほそ道」を読めるほど程度の理解力、想像力は「運命」を聴く時には必要かもしれない。「しずけさや、いわに…」の句を理解するのに、それなりの条件が必要なのと同じである。また音楽の側から見ると、同じ旋律でも低くなる時と甲高くなる時では、受け取られ方が違ってくる。寒い時と暖かい時では、同じことでも積極的に対応しようと、したりしなかったりに違いが出てくるし、楽しい時と悲しい時でも然り。同じ言葉でも例えば「馬鹿だなー」というときに高い声で言う時と低く押し殺した声で言うのでは、伝わる意味は全く違ってくる。同じ言葉を早口で言うのとゆっくり言うのでも違ってくる。必ずしも皆が同じ受け取り方をするとは言い切れないが、高い声でゆっくり言うのと、早口で低い声で言うのは反対の受け取られ方をする。旋律はそれ自体意味を持っていないが、それが上がり下がりしたり、遅くなったり早くなったりすることに呼応して、人間の感情は反応する。同じ旋律をオクターブ上げ、更にオクターブあげることで、気分の間断ない高揚を促す。例えば17世紀のクラシック音楽で「ナポリ終止」といわれる曲の閉じ方があるが、この終わり方は暗い曲を聞いている時にでも、妙に安心するものである。ある一音が半音高くなっただけなのにである。ソナタや交響曲は、音の羅列に関して一定の規則を決めたものであるが、それはあくまでバランス的な問題で、効果を考えたものではない。その結果何が聴衆に伝わるか、ということに関しては、あくまで作曲家のセンスに因る。この構成的な要素が音楽の中に意識されるようになったのは、舞曲のようなものを例に取るならば、可也早い時機からであろう。しかし現在のポップスの類が3〜5分で終わってしまうのは、唯単に旋律繰り返しているだけで、それを基にして音楽を展開させる、と言う発想が基本的にないからである。「運命」が非常に単純なモチーフの積み重ねから、あれほど巨大な宇宙を構築しているのとは正反対である。作曲家にとっては寧ろ展開の仕方に主張があるわけだから、料理の世界では「刺し身を料理人の料理と言えるか」という議論が存在するように、「旋律」の羅列から作曲家の主張は感じられない。クラシック以外の音楽では、殆どの音楽で単に旋律を羅列するだけで、感覚的な表現に終始しているが、それでもモチーフを基に展開される音楽が他にないかというと、ジャズという種類の音楽がある。ジャズはテーマ的なメロディーを基にして、その和声進行をなぞりながらプレイヤーの即興演奏で、曲を構築していく。ジャズの世界には「セッションの良さは、元の旋律の良さとプレイヤーの良さのどちらに因るのだろうか」という議論があるほどである。今までふれてきた、純粋に「音」が表現するものを抽象的に理解する音楽を「絶対音楽」と言って、そこにはメッセージ的なものは表現されていないが、一般的に音楽と言うと、メッセージ性の強いもののことを指すほうが多い。そもそもメッセージを音に託したが音楽の始まりだから、この方が本来の姿と言えるかもしれない。メッセージの最もはっきりしたものは言葉である。即ち「歌」がもっとも作曲家の伝えたい、とする事を明確の表現できる。では逆に歌の世界に絶対音楽は存在しないだろうか。例えば「ヴォカリーズ」と言う形態があるが、これは歌詞を伴っていないので厳密な意味で歌と言えるだろうか。表現主義の詩ならば、可能かもしれない。寧ろ今の日本のポップスのほうが、意味不明の日本語や和製英語=これも意味不明の歌詞が多く、抽象的と言えるかもしれない。それよりもメッセージさえ存在しないような歌詞が多く、言葉を響きとしてしか扱っていないので、「何かを伝えたい、音楽」と言うことにさえ当たらないかもしれない。このように、器楽で演奏される抽象的な内容を、組織立った構造のもとに展開していく類の音楽、を俗にクラシック音楽といって多くの人は敬遠する。小犬のワルツや新世界の第2楽章のコールアングレの独奏などは、耳なじみがするとして聞いても、第2楽章を通して聴くのは望まない、という人は多い。 締めくくりとして、クラシック音楽はスナック菓子のように口当たりは良くないが、酒やワインに通じて、素材や調理法やそれらの組み合わせにあかるければあかるい程、食事が楽しめるのと同じで、良く吟味された音楽を楽しむ為には、こちらも其れなりの準備が必要だ、と言うことである。 |